〜利用者へのインタビュー〜
山中満枝さま |
既に半世紀以上過ぎた現在もなお、あの日の鮮やかさで、 親の心にも子の思いの中にも刻まれている、ある日の出来事 を書いてみたいと思います。 太平洋戦争も末期の頃、炊事に使う薪が手に入らなくなり ました。元気な男性は、ほとんど軍関係の仕事に駆り出され、 民間の仕事をする人が居なくなったのです。私の結婚の仲人 でもあり、いつも何かと相談をしている小父さんに相談した ところ、「南原の奥の自分の松山に人手が無くてそのままに なっている切り枝がある。もし揃えて束ねるのであれば馬車 で運んであげる」とのことでした。山仕事などしたこともあ りませんでしたが、背に腹は代えられず出かけることにし、 子ども達だけを家に置くのも心配で連れていくことにしまし た。 長女は小学5年、長男小学3年、次女小学1年、三女は三 歳でした。長女、長男、私が枝集め、次女は三女のお守りと、 役割も分担しました。 出発は5月のある日曜日、お弁当はえんどう豆入りのおに ぎり、糠に黄色粉をほんの少し入れて漬けたたくあん、それ だけを入箱にぎっしり詰めました。(入箱というのは当時の 入れ物で、赤く塗った木箱に柿渋がかけてありつやつやと光 っていました。お餅など入れて大風呂敷で包み背負って持ち 歩くなど重宝しました) 手袋、タオル、おもちゃのぬいぐるみなどを入れた袋に子 ども達も思い思いの物を入れ、鋸、鎌も揃えて小父さんの馬 車を持ちました。 車体の上にはござを敷き、四人の子供とお弁当が乗りまし た。私は後ろからついて歩きます。 当時の道は小石もあり、車輪は鉄ですからガタゴトと進み ます。馬の足音のポカポカに、コトコトという石音も交じり、 後ろ向きに腰かけた子どもたちの足は、わざとしているかと 思えるほど楽しそうにゆらゆらと揺れていました。 山道にかかると、風も涼しく新緑は美しく生き返るようで、 目的地までをさほど遠いとは感じませんでした。左の川、右 の松山に挟まれて道があり、山すそが平らで子どもも遊べま す。川幅は少し広くなり、水も深く渦巻いていました。傾城 淵と呼ばれ、その昔、平家の落人が追われてここまで逃れ、 恋人と共に投身したという伝説があり、傍には小さなお地蔵 さんもありました。少し川上には赤い欄干の橋があり、青葉 青葉に美しく映えていました。枝を揃え縄で束ねる作業も、 始めは少し戸惑いましたが、すぐに慣れ長女も私も上手くで きるようになりました。長男は最初から上手でした。男だか らということでしょうか。 さて、昼食です。敷いたござの真ん中に入箱を置き六人が 囲みました。蓋をとると、なんと豆飯の美しいこと!米の白 さに豆の青さがきらきら光って見えました。赤い箱の底には 庭のはらんを敷いており、赤、白、緑、黄、と、とても鮮や かでした。濡れタオルで手を拭くのももどかしく、我先にと 頂きました。働いた後だから余計美味しかったのでしょう。 いつもよりは少し大きめに作ったおにぎりを、次女は「お母 さん、今日はおむすびが大きいから両手で持つようね」と少 し頭を傾けるようにして食べていました。 仕事を終えての帰途、馬車に束ねた枝木を載せ、その上に ござをかけて長男はまたがり、女児三人は来たときと同じよ うに脚をゆらゆらさせていました。三女は「おかあちゃん、 シンデレラになったの。馬車に揺られてポカポカ、ゆらりゆ らりよ」と嬉しそうでした。 長女、今は二人の孫のおばあちゃん、長男も次女も定年を 過ぎました。三女は亡くなり、私は93歳を重ねました。長 男は、五月にえんどうができると豆飯を嫁に頼むそうです。 次女は、その時の話になると、なんとなく童顔にかえります。 私にとっては切羽詰った生活の労働の一こまですが、子供達 にとっては家族うち連れてのハイキングの一日ということで もあったのでしょうか。 現在の南原はダムが二つ、発電所が地下に出来て、山のす ぐ近くから民家が立ち並んでいます。傾城淵もここら辺りか と見当の立てようもありませんが、集落のはずれにすっかり 土砂が堆積して、荒れた水の流れがあります。橋の跡がわず かに残っているようでもあります。 当時、長男は軍人に憧れ、小学校を卒業したら予科練へ行 くんだと張り切り、家で遊ぶときもよく三女を椅子に立たせ て自分の帽子をかぶせ「上官に対して敬礼!」などとやって いました。それを見るにつけ、私はせめて二十歳の兵隊検査 までは引き止めたいと、人には話せない悲しい思いをしたも のです。終戦が早く来て救われました。特攻隊に志願し戦死 した人のお母様は、今も悲しい思いをしておられることでし ょう。現在のこの平和が、いつまでの続くようにと祈るばか りです。 |